【公式】六殿神社

国宝の楼門を持つ六殿神社は、雁回山に居城した源為朝の所縁の地です。

御祭神と創祀

御祭神

阿蘇大明神あそだいみょうじん天照皇大神あまてらすすめおおかみ埴安姫神はにやすひめのかみ諏訪大明神すわだいみょうじん氷川大明神ひかわだいみょうじん稲荷大明神いなりだいみょうじんを総称して六殿大明神ろくでんだいみょうじんと号す。

配祀神

八幡大神はちまんのおおかみ若宮大神わかみやのおおかみ甲佐大神こうさのおおかみ山王権現さんのうごんげん熊野権現くまのごんげん妙見大神みょうけんのおおかみ

創祀

治承2年(1178)

例祭

10月9日

祭典

10月第2日曜(馬追神事、蟇目神事、流鏑馬)
春祭 4月3日

由緒

一の鳥居

元々、木原山と称されていた雁回山の本宮は、後白河天皇の御代(1155-1158)、保元の乱での強弓で名高い平安時代末期の武将・鎮西八郎為朝(源為朝)が木原城に居城の折、阿蘇宮を崇敬し、西国安鎮祈願の遙拝殿を立てたのが始まりと伝えられてます。

その後、治承2年(1178)高倉天皇の勅願にて鎮西地方の鎮護の宮として本宮創建の御綸旨を賜り、時の内大臣の平重盛が、緑川沿いの菰江の地に着船。阿蘇大明神、天照皇大神、埴安姫神、諏訪大明神、氷川大明神、稲荷大明神を総称して六殿大明神と号し、木原明熊に仮宮を建てたのが六殿神社の創建です。

楼門

寿永元年(1182)肥後守菊池隆直を社殿造宮の任にあたらせ給い、直ちに木原山麓の現在地に御社殿を造営し、神領750町を寄進。更に神護寺として円福寺(不動明王ほか5体安置)を建立し、社僧20人をつかわしてその任に当たらせました。

建武元年(1334)肥後守菊池武重は社殿を改築。八幡大菩薩、若宮大神、甲佐大神を合祀し、延元4年(1339)には征西大将軍の懐良親王が勅使として参向され、参拝を仰いだと記録されています。

社殿

天文18年(1549)宇土城主の名和伯蓍守顕忠は、宝殿の建立をはじめ、飛騨国より名番匠の甚五左衛門を招いて「釘無しの門」とも称される楼門を奉建しました。

天正16年(1589)には、キリシタン大名の小西行長が宇土城城主となり、領内の社寺を焼討します。本宮は、勅願社の故を以ってその神域を懼れ火難はまぬかれたものの、神領や宝物は掠奪され、社内は乱妨狼藉を極め、本地堂等を焼失し、円福寺本尊は山中に隠され、木原不動奥の院として奉安されます。慶長5年(1600)加藤清正は、本宮に於て宇土城攻略の戦捷祈願をなし、その制札を立て、乱妨を禁じ、神領を寄進し社殿を改修しました。

細川歴代藩主の尊崇も厚く、今も尚、奉納の絵馬や安泰祈願大灯籠が現存し、一般庶民の信仰は肥後国内はもとより、鎭西(九州)一円に亘り、除災招福、心願成就を祈念する人々の、心のよりどころとして、神威益々広大に崇敬を集め今日に至っております。